「農民」記事データベース20000814-460-09

兵舎跡地が農地に

旧日本軍が侵略した中国東北部を訪ねて


 五月二十七日から六月三日まで、中国東北部(黒龍江省黒河市周辺)の戦跡視察と戦死者への慰霊の旅をしてきました。

 旧関東軍部隊跡地は兵舎が完全に取り除かれ、立派な農地に生まれ変わり、穀物畑や野菜畑に変身していました。その中で私が感心したのは、中国の農民が自分達の力で農地を開拓“黄砂”などを防ぐために耕地や草地に立派な防風林を作り、農地を守っていることや、延々とのびる未舗装の道路を補修している姿です。

 畑は麦が栽培され、ハウス栽培で野菜が作られ、朝市では農畜産物が売り出され、活況を呈していました。

 「貧しい時代は肉食が多かったが、豊かになった現在、健康上の理由から野菜を多く食べるようになり、野菜のほうが肉より高い」と地元の農民が話していました。

 しかし、食料は日本より極端に安く、我々の同行者の中には「きくらげ」など麻袋一杯買ってきた人もいました。

 中国の農民はよく働きます。人力や牛馬で耕耘などが行われ、夜明けとともに働いている農民の姿もありましたが、大型トラクターや播種機も動いていました。牧草地には馬や牛、めん羊などが放牧され、どの家にも大きな干し草の梱包がつくられ、冬の飼料に備えられていました。

 ちょうど田植えの真っ最中で、手植えのところ、機械植えのところがありました。広い土地でありながら、水田は面積が日本の田より小さいのでたずねると、「気温が低く大きな面積では水温が上がらないので」ということでした。

 私は黒龍江近くできびしい初年兵教育を受けましたが、それより奥地に開拓団や青年義勇軍の人々が「満蒙開拓」の美名のもとに日本侵略軍の前線に立たされていました。開戦となるや男子は関東軍に動員徴兵されて殺され、婦女は逃避行に耐えられず、餓死したり、戦争孤児になったりしました。

 食糧を作る農民は平和を希求します。日本のように「米を作るな」という政治は亡国政治だということを知りました。そして、日本も基地をなくし、食糧が生産される大地になることを願って帰国しました。

(平野力 京都在住・獣医師)

(新聞「農民」2000.8.14付)
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2000年8月

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