戦時中の米の強制供出父が残した怒りの書き付け〈岐阜〉
父親(明治二十一年生)がのこした書類箱を整理していたら、一枚の小さな書き付けが出てきました。それには男女、年齢別に自家保有米の割り当て量が筆で書いてあるのです。
昭和十五、六年の太平洋戦争が始まった前後だと思いますが、農村の働き手が戦争に狩り出されて食糧不足になってきたとき、政府が農民から自家保有米を除いた残りを強制的に供出させたときのもので、小学校生だった私も、父親が「たいへんなことになった」と言ったり、毎晩のように供出割り当てのための寄り合いがおこなわれるなど、村中たいへんな騒ぎだったことを覚えています。 当時、私の地方は湿田が多く、農作業はすべて人力による重労働なのに、副食は野菜だけで、栄養は米からとらねばならず米の消費量は多かったのです。 戦争末期にはその保有米の割り当てがさらに減らされたと記憶していますが、その書き付けは見つかりませんでした。戦後もそんな状態がしばらく続きました。農民を戦争に狩り出しながらその農民から供出を強制した当時の支配者。その侵略戦争を反省もせず、有事立法制定などを画策し、アメリカ言いなりにコメを輸入して農民に減反を押しつけるいまの政府。 養蚕などで金をかせぎ、苦労して一枚一枚田を増やし、小作と併せてやっと七反歩ばかりに米を作っていた父が、怒りをこめて残した茶色に変色した書き付けを見ながら、「いつまで農民をこんな目にあわせるのか。これでは日本の国は亡びてしまう。今度の総選挙で自民党政治を変えなければ」と思っています。
(岐阜農民連・岩田昭)
(新聞「農民」2000.6.26付)
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[2000年6月]
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