「口蹄疫110番」に悲痛な訴え牛が可哀想で眠れない…“融資でなく補償早く”
県に電話してものれんに腕押し「牛に何の責任があったのですか。減反減反で稲も作らせず、安ければなんでも輸入する。ここを見直さなければまた起こる。牛が可哀想で眠れない。泣いて顔は腫れ、体もやせた。県は融資の枠を確保したと大宣伝するが、いくら枠を確保しても融資は融資。一億円の枠は要らん。一円の補償がほしい」――畜産農家だけでなく家畜商や削蹄士などの関連産業をはじめ、野菜農家からも経営と暮しにかかわる深刻な相談がよせられた口蹄疫一一〇番。宮崎県農民連の事務所には、百二十件を超える電話がよせられました。口蹄疫一一〇番に「県に電話をしてものれんに腕押し、牛一頭(四十〜五十万円)を電話代につぎ込んででも話しをしたい」と四十分間思いのたけを話してくれた、岩野成子さん(58)。宮崎県高鍋町で母牛六十頭を飼育し、和牛の繁殖を行っている岩野さんの農場を五月二日に訪ねました。 日向灘に面した高鍋町を南北に貫く国道十号線を北に走ると、岩野さんが畜産を営む持田地域があります。ここは畜産や野菜、お茶の生産が盛んで、ちょうど茶摘みの真っ最中。新緑に包まれた茶畑の間を抜け、少し下ると、小高い森の間に水田が広がり、その奥まった一角に岩野さんの牛舎があります。
牛も人間も恐怖におののく「いくら法律とはいえ、人間が食べても害がない。病畜も九九%が回復するんでしょう。それだったら、ああいうふうにして抹殺する必要はないんじゃないかと思うんです」。一軒の農家から一頭でも病畜が出れば、子牛であろうと、何であろうと、他の牛も皆殺しにするため、農家は検査が終わるまで、自分の牛が口蹄疫に感染していたらどうなるのかと、恐怖と不安に陥れられました。「うろたえにゃいけんけど、落ち着いて処理してもらわんと。ただ殺してしまうのではなく、法律の改正もある程度考えてほしい」と言います。
牛に育てられ生きてきた…そんな岩野さんの牛への思いは並々ならぬものがあります。昭和十六年に生まれた時、自宅ではすでに三頭の種牛を飼っており、畑を鋤いたり、代掻きも牛がしていました。当時は寒くても裸足で小学校に通い、雨が降ると、通学路沿いに積んである堆肥から茶色い汁が道路に出て来て、それが嫌で学校を休んだこともありました。小学校三年の時、種牛を売ったお金で、お母さんが赤い長靴を買ってくれたことがほんとうに嬉しくて、今でも心に残っています。昭和二十六年、父親が牛に突かれてろっ骨三本を折り「我が肺を見た」と話すほどの大ケガを負い、二年後に亡くなります。岩野さんが小学六年生の時でした。 その後、母親が米や麦、唐芋を作り、四頭の親牛から生まれる子牛を売って生計を立ててきました。種の付かない婆さん牛には唐芋と麦を釜で炊いて食わせて肥やし、高校入学の時、高校の修学旅行の時など、その牛を売ってお金を作ったのです。「私は牛に育てられたようなもの。その牛がいったい何をしたのか、人と牛が一緒になって農業を支えてきたのに」と語気を強めて話します。
牛飼いに希望もてる農政を父が亡くなってから十年ほど母親が牛の人工授精を行っていましたが、昭和三十六年、岩野さんはご主人と一緒に人工授精士の資格を取得し、母親から経営を譲り受けました。そして今日まで、牛の粗飼料用に、町内を流れる小丸川河川敷のカヤやススキなどを刈り、隣接する木城町の製材所から出る国産材の荒いおが粉を使って、牛を飼ってきました。岩野さんは言います。「よだきごろで(楽をしようとして)、安ければよいとワラまで輸入したことがいけない。汗水たらして働くのが今までの農家だった。農水省も畜産にワラが必要なことはわかっていたのだから、減反を開始した時から農薬を使わなくてもできる飼料用の稲を開発するべきだった。私が畜産を続けられるのはあと十年くらい。次の世代が、楽しく牛飼いのできる農政を考えてほしいと思うんです」と。
(森吉 秀樹/新聞「農民」2000.5.15・22付)
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[2000年5月]
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