「農民」記事データベース20090406-871-14

どうなっているの? 日本の水産業 =最終回=


栄養素を補い合う米と魚

 米と魚という日本食の関係は、いつごろできあがったのでしょうか。

 主食の米と副食の魚・野菜の型が

 長崎福三氏の『日本人と魚』によれば、魚は縄文時代から食べられていました。太平洋岸を中心に貝塚が発見され、縄文人は魚介類を求めて狩猟生活をしていたようです。島国日本の地形的な特質から、熊や鹿などの陸上動物より魚類を多く食べていたらしい。日本人のDNAには、祖先の魚好きが植え付けられているのかもしれません。

 弥生時代には水田農耕中心となり、主食の米、副食の魚・野菜という日本食の原型が作られました。室町時代には、農業の発展によって米の生産が増大し、一般庶民も米を常食にし魚食も普及するようになりました。この時代から、日本の食文化は本格的に発展し、いろいろな料理法や食事の種類もできあがったようです。漁業も定置網の一種の大謀網や地引網などが各地に広まりました。

 江戸時代は沿岸漁業の花盛りで、特に徳川家康が関西の漁業者を江戸に移住させたことから、江戸前漁業が発展しました。また、各地の海産物が食卓に上がったようで、外洋性のブリ、タラ、サワラ、カツオなども漁獲が進み、食卓をにぎわせました。房州のイワシ、五島列島のマグロ、松前のニシンはこの時代の3大漁業でした。明治時代に入り、1891年(明治24年)の総漁獲量は106万トンで、明治30年以降、沿岸から沖合漁業へと発展し、日露戦争後、北方領土への権益が確保されると、樺太や日本海での遠洋漁業が発展しました。

 様々工夫されてきた魚の味付け

 このように、主食の米と副食の魚は、淡白な味の米に対して調理や味付けされた魚が多様に工夫されてきました。さらに調味料をも発展させ、しょう油、みそを生み出しました。ここに、日本人の味の繊細さができあがり、微妙な味の違いを楽しむ日本食の魅力が形成されてきました。その上、白米の白、タイ類の赤、野菜の緑など色彩 を大切にし、その器にまで気を配った日本食の美の極致も同時に追求されてきました。また、米に足りないヒスジンやリジンなどは魚肉に多いなど、米と魚はお互いに足りない栄養素を補い合っています。

 パン食にはどうしても魚はマッチしません。日本人の食事は、やはり米と魚と野菜とみそ汁なのでしょう。

(おわり)
(21世紀の水産を考える会 山本浩一)

(新聞「農民」2009.4.6付)
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2009年4月

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