日経調「農政改革」提言と
日本の農業・農民
駒沢大学名誉教授 石井 啓雄(いしい ひろお)
第7回農地改革と戦後日本の民主主義
前回までの記述で、日経調高木委員会の「農政改革」提言が、家族経営によって担われている日本農業の現実をふまえて、それをどう発展させるかという立場にたった「改革」論では全くなく、財界が日本の農業と農地・農村をいかに乗っ取ろうかというプランであることを述べました。そして、その立場からして三つの課題を掲げてはいるが、その最も主な狙いは、戦後日本の農地制度を根本から改廃することにあることも明らかにしました。
戦後改革のなかでの農地改革
そこで以下では、この農地制度問題に限って、まず農地改革の内容から始めて、戦後日本の農地制度の成り立ちとその理念および主要規定、その最近までの「改正」と関連法制の制定経過などについて述べます。そして、農地法の諸規定の内容とその運用実態についても紹介しながら、農地制度に関する日経調の「提言」を具体的に批判し、私たちがとるべき道について考えてみたいと思います。
第二次大戦の敗戦後、アメリカ軍の占領下ではありましたが、日本は明治維新にも比肩できるような大きな改革を経験しました。民主主義的な戦後改革です。それは、天皇制、議会制度、軍事、財閥、教育、労働、家族制度などの万般にわたる改革でしたが、なかでも農地改革は重要なものでした。
在村地主の所有する一ヘクタール(都府県平均)以下の小作地を除くすべての小作地や法人所有地などを、国が戦後インフレ発生前の収益還元地価で強制買収し、これをその農地を耕作していた小作農などに解放したのです。その規模は、約二百万ヘクタール(小作地総面積の約五分の四、農地総面積の約三分の一)に達しました。約五十万ヘクタールの小作地は残りました(しかし、その耕作権は強く保護され、自作地化が促されたことについては後述)が、大多数の農家が三十アール〜三ヘクタール(都府県平均)の農地を所有し耕作する自作農となったのです。この自作農化で農民の生産意欲は高まり、戦後の食糧難を早期に解決したばかりでなく、一九五五年頃には日本の農業生産力は戦前には考えられなかった高い段階に達しました。
農地改革の決定的意義
収穫の半ばに近い高率小作料を徴収し、いつでも小作地を取り上げることができた寄生地主制の下で、戦前、日本の農民は、無権利と貧困に苦しめられ、それが移民や次三男と女性が工場の低賃金労働者や兵士になっていく理由ともなりました。他方で地主層は多数の代表を帝国議会に送るなどして、財閥や文武の特権官僚とともに、戦前の絶対主義的な天皇制と侵略主義的な資本主義を支える重要な柱でした。
この地主制を、戦時中の農地立法の規定などを準備作業として活用しながら、短期間に徹底的かつ不可逆的に解体し、農民的土地所有を制度化した農地改革の意義は、だからただ農業と農地にかかわる改革であっただけではなく、戦後の日本社会全般の民主主義的改革に不可欠の決定的な一部だったのです。
(つづく)
(新聞「農民」2006.10.23付)
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