「農民」記事データベース20020826-552-01

充電二年、結婚して新境地を開いた津軽三味線の音色は

 五年前、初代竹山から二代目の襲名を許されて以後、全国各地から海外へと演奏活動を続けていた高橋竹山さんが、二年間の休養・充電期間を終えてコンサートを今秋再開することになりました。東京・上野の東京文化会館から開始して大阪のサンケイホール、そして九州、静岡など各地で公演の予定。その抱負などを聞きました。


 津軽三味線奏者

     高橋 竹山さん

〔たかはし・ちくざんプロフィール〕 一九五五年、東京都生まれ。初代高橋竹山の内弟子を経て七九年に独立。九七年一月に二代目竹山を襲名。襲名以前から、師竹山について日本国内はもとより、八六年のアメリカ七都市公演や九二年のフランス・パリ公演など海外で共演する。九五年から五年間、イギリス・エジンバラでの夏のフェスティバルに参加してきた。
 九五年春、師から独立して十五年目を迎えたのを期に、初のCDアルバム『津軽三味線とその試み』を発表。三味線独奏曲や師竹山との三味線二重奏曲などの他、故寺山修司が生前に作詩した、寺山修司の遺作『さらば東京行進曲』『歌のわかれ』『せきれい心中』『紅がすり抄』の詩に作曲したもの、北海道民謡「江差追分」とアラブの民謡をベースにした、バイオリンの太田恵資との即興的セッション『北の唄』、三味線とジプシーバイオリンが交錯するトルコ舞踊曲『ロンガ・シャーナーズ』などを収録した。二〇〇〇年、二枚組CD『CHIKUZAN』を発売。


 結婚が休養のきっかけに? いえいえ、そうではないんです。私、襲名して三年間はしっかり演奏活動をして、そのあと休養する予定にしていました。

 たまたま巡り会った人がいて、結婚することになり、それが同じ時期になったということです。休養は最初から決めていたんです。

 初代が亡くなって四年になります。私が十八歳の時、内弟子に入り、六年後に独立しましたが、初代とは襲名するまで二十数年、同じ舞台に立たせてもらいました。有り難いことでした。

 「門付け」の精神を基本にして

 初代から「二代目を襲名させる」と言われたのは、弟子になって四年目の時です。他に優れた先輩のお弟子さんたちがおられましたが、他に本職を持っていたり、自宅で教えたりしていて、初代のように各地を巡演して歩く私が選ばれたのだと思います。

 北海道、東北地方の家々を一軒一軒、門付けして歩いた初代の精神を受け継ぎ、他の分野の演奏家と積極的に共演するなど、芸の幅を広げる努力をつづけてきました。

 休養は生活のスタイルを変えた

 私は十八歳で内弟子になってから二十七年間、ずっと「三味線が中心」で、生活も時間もすべてが三味線でした。休養と結婚は、そうではない自分を改めて見つめ直す機会になりました。それまでは「三味線があって生活がある」というスタイルでしたが、「生活をしながら三味線がある」という「逆の面がある」ことに気がつきました。

 女性の場合「仕事と家庭を両立させるのは難しい」と昔から言われているとおり、なかなか厳しい面があります。だから今ほど「男に生まれたら良かったのに」と思ったことはありません(笑い)。

 津軽三味線ブームで若いファンが

 この二年間のうちに吉田兄弟など若い人たちが出てきて、津軽三味線がブームになってきたようです。津軽三味線のファンが年齢の層を超えて増えてきたことは、とても嬉しいことです。ただ私の今の家は「前は海、後ろは山」という所で、テレビをつけていません。だから情報は新聞だけです。半分「自給自足」の生活をしていますから(笑い)。「越後つついし親不知」の近く、新潟のある町で夫(アルピニスト)の実家に住んでいます。お米は「こしひかり」の産地、坂の多い地区です。

 津軽三味線のブームといえば、私が十五歳の時もそうでした。ブームというのは数年に一回というサイクルで繰り返すんですね。それまでの蓄積が花を開いたというのと、注目を集めるような演奏者が現れてきてブームを呼ぶ場合があります。「津軽三味線のコンサート」というだけで、どの会場もいっぱいになり、そして津軽三味線の太棹に対する認識が若い人たちの間にどんどん広がっていく。素晴らしいことです。私たちも、それが励みにもなるし、とても良い影響を及ぼしてくれていると思っています。

 他の分野の演奏家たちと共演

 津軽三味線は「ジャズのように即興性があり、いかに演奏者の個性を出すかが勝負の音楽」とも言われています。ですから他の分野の演奏家、バイオリンの太田恵資さんやドラムの方、フラメンコの方たちと共演し、自分の芸の肥やしにさせてもらいました。

 相手の迫力とか、音楽に対する考え方とか、会話しているだけでは分からないものを本番で知ることができます。互いに探り合いながら、盗みながら演奏するわけです。それが自分一人で演奏する時にプラスになるし、自信にもつながってきます。だから他のジャンルの方と共演することは、演奏者にとって絶対不可欠だと思います。

 これから共演したいと思う方たちはたくさんいます。その中で、最終的に私一人の舞台を貫きたいと思っているんです。

 それから海外へも積極的に出て行きたいと思っています。五年つづけて行っていたイギリスのエジンバラには、もう二年も行っていません。

 幕開けに初代が愛した「津軽じょんがら」を

 演奏活動再開のスタートは、東京・上野の東京文化会館に決めました。十月九日です。あの会場を選んだのは、私が日本中で一番好きなホールだからです。音響効果が非常に良く、初代と二回、大ホールで演奏させてもらいましたが、とても弾きやすい会場でした。

 演奏する曲も熟慮して決めました。初代が舞台で一番最初に演奏する曲は「三味線じょんから」という決まりになっていて、それは何十年も変わりませんでした。私も内弟子に入ってすぐに教えてもらった曲ですけど、その後のコンサートで最初に弾いてみようという気になれませんでした。非常にシンプルな曲で、弾くのがとても難しい曲なんです。

 つきつめて考えると初代がとても愛した曲であり、何とかして自分のものとして消化しなければ、一生弾けなくなると―。それに気がついて今後のレパートリーの中に必ず入れようと決めたんです。

 あとは古い曲はもちろんですが、私が作曲した新曲を二つくらい演奏したいと思っています。私の竹与(ちくよ)時代からファンになって下さった方たち、二代目を襲名してからファンになって下さった方たちに、二年間のご無沙汰をお詫びかたがた、楽しい再会コンサートにしたいと思っています。

 東京の次は、大阪のサンケイホール。その後は九州、静岡の予定です。皆さん、乞うご期待! 宜しくお願いします。

(聞き手)角張英吉
(撮 影)関 次男

(新聞「農民」2002.8.26付)
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2002年8月

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