農の考古学(16)稲作の歴史をたどる
田植えが始まったのは稲作で田植え(移植栽培)が始まったのは、いつころでしょうか。 各地で古代水田跡の発見例が増えるなかで、課題となっていたのが田植えが始まった時期を明らかにすることでした。しかし、見つかった水田跡は、台風など大雨による洪水で埋没したものが多く、苗代跡の検出は至難なことでした。 一九八五年、古代の苗代跡とみられる遺構が群馬県・子持村で見つかりました。同村の古墳時代の集落跡、黒井峯、西組の両遺跡は、六世紀中頃の榛名山の噴火で降下した軽石で埋まりましたが、厚さ二メートルの軽石によって当時の集落跡や地表が残っていたのです。 発掘によって黒井峯遺跡からは、集落跡の家屋や牛小屋、道、畠、垣根、農作業場、祭祀の場、水田跡などの遺構が見つかりました。このなかに短冊状に分割された、三平方メートル前後の「小区画の畠」跡が黒井峯遺跡で十四カ所、西組遺跡で四カ所、見つかりました。 群馬県埋蔵文化財調査事業団の能登健氏、子持村教育委員会の石井克己氏らは、この「小区画の畠」を、耕作土がきめこまかで苗床の可能性が高い、住居に接して管理しやすい場所にある、噴火で集落が埋没したのは田植え直前の初夏だったことから、陸苗代(おかなわしろ)と判断しました。土壌のプラント・オパール(植物珪酸体)分析でも、苗の植物珪酸体と類似した形状結果が得られました。 「戦前まで、稲作で最も神経を使ったのは鳥害対策でした。種籾の播種から発芽の間に鳥害にあうと収穫が望めなくなります。それで黒井峯集落でも鳥害を避けるために住居の側に陸苗代を設けたのです。陸苗代の存在で古墳時代の東日本に田植えが行われていたのは、まちがいないでしょう」と能登氏はいいます。 「日本のポンペイ」といわれる黒井峯遺跡の発掘調査から、古墳時代の管理された稲作と畑作のあり方、村の生活の様子がうかびあがりました。 (つづく)
(新聞「農民」2002.8.5付)
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[2002年8月]
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