農の考古学(10)稲作の歴史をたどる
早かった稲作の波及北部九州で始まった水田稲作は、数世代の後、日本列島の各地へと波及していきます。弥生時代前期中頃(紀元前二〇〇年前後)でした。戦後の長い間、東日本で稲作農耕が始まるのは弥生中期からだとするのが考古学界の通説でした。東北北部(青森・岩手・秋田の各県)での稲作農耕は、さらに遅く八世紀以前には考えられないという意見もあったのです。その理由として、豊かな自然界に依存した採集文化が稲作を必要としなかったとか、寒冷の地に耐える稲の品種改良がなかったなどがあげられていました。 こうした見解に対し、伊東信雄氏(元東北大学教授)は、青森県下の遺跡から出土した焼米や籾痕土器などをもとに、東北北部でも弥生時代に稲作農耕が成立していたと主張します。伊東氏の主張は、一九八一年に青森県南津軽郡田舎館村にある垂柳遺跡から弥生時代中期後半の水田跡が見つかったことで、裏付けられます。 垂柳遺跡の水田跡は、四千平方メートルにおよび、畦畔で整然と区分けされ、水路が設けられていました。西日本の水田と変わらない高度なものでした。八八年には弘前市の砂沢遺跡から弥生前期後半の水田跡が見つかります。稲作は予想以上の早さで本州最北の地に到達していたのです。 その理由について、佐原真氏(元国立歴史民俗博物館館長)は、日本海ルートの稲作伝播をあげています。 稲作文化は、弥生前期の土器である遠賀川式土器を伴って波及しました。日本海側の島根・鳥取・京都・石川・新潟・山形・秋田・青森の各府県の遺跡からは、遠賀川式土器や、これに類似する遠賀川系土器が出土しています。佐原氏は、これらの土器資料から、日本海ルートを北へと移動した人びとによって東北北部に稲作がもたらされたと確信したのです。 (つづく)
(新聞「農民」2002.6.3付)
|
[2002年6月]
農民運動全国連合会(略称:農民連)
本サイト掲載の記事、写真等の無断転載を禁じます。
〒173-0025
東京都板橋区熊野町47-11
社医研センター2階
TEL (03)5966-2224
Copyright(c)1998-2002, 農民運動全国連合会