大きく花開いた転作大豆づくり福島・浜通り農業守る会
岩子集落の1/3の田んぼが大豆畑に小高い山の裾から海へと続く広く平らな田んぼ。遠くに見える松林の方角から吹く潮風にゆれながら、元気に育つ大豆――。ここは、福島県相馬市、岩子(いわのこ)集落。約百二十ヘクタールの田んぼのうち、三分の一にあたる四十三ヘクタールが、福島農民連・浜通り農業守る会の「大豆共同生産組合」がとりくむ大豆の転作田です。“県産大豆を県民に”という福島「大豆の会」の発足がきっかけで始まった大豆作りが、四年目を迎え、地元の農家の信頼を得て、自治体からも地域農業の担い手として注目されています。
3年間、失敗と改良の積み重ね「今年は今のところ順調」と、十五センチほどに育った大豆に目を細めつつ、慎重な姿勢を崩さない安部(あんべ)義雄さん(65)ら、大豆生産組合の人たち。それもそのはず、ほとんど経験がないなかで、しかも海抜ゼロメートルでの大豆作りへの挑戦は、これまで失敗と改良の連続だったからです。一年目は栽培暦の後追いになり、大豆作りか雑草作りか、わからない状態に。収穫も遅れて「大豆が目の前でパチパチはぜて、気ばかりあせった」と荒優一さん(61)。二年目は、播種直後から続いた長雨でほぼ全ほ場が根腐れ、三年目は根切り虫(蛾の幼虫)の大発生と、毎年困難にぶつかりながらも、弾丸暗渠を掘ったり、肥料の全面散布をやめ側条施肥にするなど作業を見直し、翌年に生かしてきました。
地元の農家の応援が支えになってそんな大豆生産組合の心強い味方になったのが、地元の岩子集落の人たちでした。最初は「突然他人の部落に来て田を貸せと言う。何をたくらんでいるのかわからない」と警戒していた地元の農家も、きっちり作業をこなす大豆生産組合にだんだん信頼を寄せていったのです。岩子で二年目を迎えた昨年、湿害を回避するために大豆ほ場への用水を止めてくれたり、除草効果を高めるために春に二回うなってくれるようになりました。また、大豆生産組合のメンバーと、地元の人との立ち話は日常の光景になり、作業後の打ち上げも恒例になりました。「もうからないのによくやってくれる。何か手伝いたいという気持ちが集落に広がった」と、岩子の岡本俶亨(よしたか)生産組合長。 一方、「地元の連帯が大きな支えになった」という安部さん。岩子の人たちに田回りに参加してもらい、大豆作後の田んほの肥料設計をしたり、税金申告にも誘いました。そして、岡本さんをはじめ岩子生産組合の三役が、浜通り農業守る会に入会したのです。
米も大いに作って一緒に売っていこう岩子集落が大豆生産組合と出会ったのは、牧草の転作を酪農家に断られ、ブロックローテーション(減反田を一カ所に集める集団転作のやり方)がバラバラになりそうな時でした。ブロックローテーションが崩れれば、転作奨励金が少なくなってしまいます。岡本さんは「出会えて本当によかった」と言います。同時に、「本当は米を作りたい」というのが岩子の農家の偽らざる気持ち。三役の一人、花澤昭夫さんは「立派な田んぼを作って米を作らせないのはおかしい」と言って、基盤整備で一枚が五十〜六十アールになった田が整然と並ぶ田んぼの方角を見やりました。 安部さんらは「転作奨励金はやがて削られる。その時に備えて米を大いに作り安全でおいしい国産米を求める消費者に一緒に売っていこう」と岩子の農家にも呼びかけています。同時に、補助金に頼らない、高く買ってもらえる良質の大豆作りにも余念がありません。
地域農業の担い手として市にも提言米価の暴落、輸入農産物の急増、減反の強制で、農地が荒れ、後継者がいないという状況が全国的に広がっています。「頭ごなしに『作るな』という行政に対する反発もあった」と、スタートした時の心境を語る安部さん。こうした大豆生産組合に対して、初めは「減反をしない人が、他の集落で転作を請け負うのはどうか」とケンカ腰だった相馬市も、しだいに地域農業の担い手として注目せざるを得なくなりました。安部さんら浜通り農業守る会・相馬支部は、作った大豆を地元のしょうゆ屋や学校給食に卸すなど、地産地消のとりくみを市に提案しています。 浜通り農業守る会の中井信也事務局長は、こうした支部の活動に「地域をどうしていくのか、支部ごとに政策を持とうと言ってきたことが花開きつつある」と確かな手ごたえを感じています。
(新聞「農民」2001.7.30付)
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[2001年7月]
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