農民の努力を実らせる時代へ日本農業――20世紀から21世紀へ(下)小林 節夫(農民連代表常任委員)
血のにじむ農民の労働二十世紀になっても、他に働く口が少なかっただけに、農民は貧しければ貧しいほど、ひたすら収量を上げるために努力してきました。貧しい農家にとって、養蚕は貴重な現金収入の源でした。微妙な蚕の飼育を担当するのは女性でした。 「もう今年はお祖母さんは蚕は無理だろう」と思っていたら、いざ稚蚕が配られると腰がしゃんとなったものです。座敷や茶の間まで畳をあげて、蚕棚の間に寝て蚕を飼い、夏蚕の上簇ともなれば徹夜です。
人影のはげしく揺れて農作業に、家事に、育児に男尊女卑の古い社会のなかでの激しい労働でした。 長塚節の『土』は二十世紀初めの茨城の貧しい農民を描いたりアリズムの先駆ともいうべき筆致の小説ですが、これは戦前、どこにも見られた現実でした。
農民に劣らぬ研究者の努力農業には敵が多い。冷害は容赦なく収穫皆無をもたらしました。昭和九(一九二六)年の大冷害では東北では窮して娘を売ったいう話もありました。農林省の冷害試験地が藤坂(青森県・現県藤坂支場)に設けられ、初代場長の田中稔博士は画期的な耐冷品種の育成に生涯を捧げました。いま、コシヒカリもササニシキも農林一号を親にもっています。その農林一号は、北陸の農民の労苦を軽くしようと精《を傾けた並河成資の苦心の早生のイネです。育種に生涯を懸け、自ら命を断った悲劇の研究者でした。 (いま、政府は一つの研究に何年もかかるのはけしからん、といったり、研究機関を独立行政法人にするといっていますが、とんでもない話です)
長い努力の成果をつぶす自民党農政※稚苗植え田植機のこと戦後、標高千メートルにも及ぶ軽井沢(長野県)で荻原豊治さんは毎年脅かされる冷害を克服すべく努力して、保温折衷苗代を考案し、今日の育苗の原型を作り出したのでした。 七〇年代後半、田植機が登場しました。あれほど健苗が強調されてきたにも関わらず、メーカーが稚苗植えを発売したとき、試験場も普及所も、何の批判もせずに、追随しました。 早く植えれば稚苗でもいいではないかという意見もありました。だが、何の検証もなく、そういう指導に責任が持てるでしょうか。成苗植えが不可能なわけではありませんでした。現に、みのる式成苗植えの機械が実用になっているのですから。 ※農地の基盤整備事業 なぜか、今は、水田の基盤整備事業は「土地改良」とは呼びません。新潟県を除いては、全国のほとんどの基盤整備が湿田の乾田化をせず、区画を大きくするだけなのが特徴です。 減反でなく、本当の意味で生産調整するというなら、なぜ排水を考えないのか! 岩手県の紫波町の基盤整備では、うねが長すぎて、途中で苗の補給ができないので、発芽したばかりの苗をテープに包んで田植をするロングマットを採用した田がありました。あの寒冷地で稚苗よりまだ小さい苗を植えたら減収したり冷害のときなど収穫皆無になる危険が高いのに。 新聞「農民」にしばしば紹介された栄村(長野県)の「田直し事業」や大豊町(高知県)の「せま地直し事業」など急傾斜地の水田の小規模土地改良の方が単価が高いはずなのに、平坦部の国営や県営の圃場整備の方がはるかに高いのはなぜか? 農民が要求していないものまで過剰に工事をするのがその特徴です。
北海道の農業に思う一口に北海道農業といっても多様ですが、それぞれが興味深く、これまでの粒々辛苦が偲ばれることが多いのです。十勝農業の規模の大きさもさることながら、うねが何百メートルでも真っ直ぐで、私にはとても真似のできない技術です。そのうえに成り立つことですが、管理作業のカルチの部品の細かな工夫――地域の農機具業者と農民の協力と努力で完成したということは本当に感動的なことです。 空知では、タマネギの植付に、成苗植え田植機の原理を活かして機械化できないかという農民の声を、みのる産業が実用化し大規模の作付を可能にしました。 たった一つの成果でも、何百、何千の血の滲むような努力と実地の適用・検証を経て、技術はその地域に定着し、農業生産が向上・進歩して来たのでした。
世界でも優れた農業をなぜつぶすのか!一世紀にわたる、こうした無数の努力によって築き上げた日本農業は、世界的に見ても優れたものだというべきでしょう。雨の少ないアメリカで除草剤を幾らでも使うために遺伝子組み換え作物を作って人々に不安を与える農業観と、雨の多いモンスーン地帯で水を活かして稲作をここまで多収にした日本農業。草を栽培するヨーロッパと、草とたたかう日本農業。雨が少なくて地下水に頼る欧米が硝酸態チッソに悩まされてつくり出した「有機農業」の基準を日本に強要するコーデックス。対して、硝酸態チッソを遊離チッソにする(脱窒)機能を持つ日本の水田。 北から南まで三千キロ。いつでも何かが作れる日本列島。 この日本の一ヘクタール当たりの人口扶養能力は世界でダントツだといいます。どうしてこの日本農業をだいなしにしなければならないのか。二十一世紀の世界の食料と、安全で新鮮な食べ物を考えるとき、日本農業は守るに値する農業です。 世紀の終わりに一気にだいなしにした歴史が、発達した資本主義国のどこにあるでしょう。
国民の合意と運動こそ―国民のエネルギーに 思いをよせて―一九九七年一月、ロシアの油送船の重油が日本海に流出したとき、あの広大な海岸に打ち寄せた重油を、ほとんどボランティアの人々の力で掬い取ってしまいました。信じがたい事実でした。こんな現象が二十世紀の終わろうとする頃、日本社会に現れたのです。誰が予想したでしょう。世紀の大きな特徴ではないでしょうか。 阪神淡路大震災のとき、割り当てでなく一片の呼びかけだけで、全国の農民連から二カ月にわたって米・野菜・果物・水などが送りつづけられました。これもボランティアの最たるものです。 こんなこともあります。池田町(福井県)の「ふるさと十字軍」に応募して都会育ちの青年たちが森林労働者としてこの町に永住したり、賀茂川町(岡山県)のフォレスターに数人の若人が応募して活き活きと山林を守る労働をしていたり、最近では栃木県にも同じような応募が殺到しているということです。 都会の人の間に農山村への関心が高まっているとも報じられますが、「農山村の厳しさを知らないからだ」などと決めつけられない真摯(しんし)さがあります。農山村の住民、農民自身が農業・農山村の価値に気づくべき問題でしょう。 「都人よ、来ってわれらに交われ 世界よ、他意なくわれらを容れよ」(宮沢賢治の『農民芸術概論』)――どこか今に通ずるものがありそうです。 一連のボランティアの動向は決して声高ではないし、いつも表面化しているわけではありませんが、悪政に対する批判や「国産ものを食べたい」という要求とどこかで合流する、そんな必然性を思わせるものがあります。第十三回大会のスローガンの「国民諸階層と団結して」に、そんなことを感ずるのです。 (おわり)
(新聞「農民」2001.1.15付)
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[2001年1月]
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