「農民」記事データベース20010108-476-02

日本農業――20世紀から21世紀へ(上)

小林 節夫(農民連代表常任委員)


自分で築いた地盤を自分で壊す自民党の終焉の過程

農業と農山村の復権励んだ時期があった

 農民連第十二回大会は「二十一世紀へ! WTO協定改定 農業と農山村の復権を!」というスローガンを掲げました。私がこのスローガンで連想するのは、戦後、農地改革が一応終わった頃のことです。

 何百年となく抑圧され、自分で作ったものを自由に享受したことがなかった農民が、戦後の農地解放によって、作れば作っただけ自分の収入になるという時代を迎えたのです。「復権」という言葉は、その頃の農民の活き活きした表情を思い起こさせるのです。

農民から搾り上げたカネで資本主義を

 明治六(一八七三)年に地租改正が行われ、地租(農地に対する現在の固定資産税のような国税)という重税のために、多くの農民が農地を質に入れて借金し、それが返せないで農地をとられてしまいました。それでも何とか農業で生きるしか道がないので、その土地を借り収穫の半分を小作料として納めてその土地を耕作するようになりました。

 地租がどんなに重税だったかは、明治中期には国庫収入の六〜八割を占めたこと(野呂栄太郎『日本資本主義発達史』)や、明治十七〜十九年の質流れになった土地の価格が、二十億円に達した国の歳入の三年分に当たるということでも分かります。

 その国家財政から、富国強兵という名のもとに紡績工場、鉱山、製鉄、造船、海運、セメントなどをはじめ軍需工業、重工業に投資して宮業官営で資本主義的生産様式を推進し、やがて軌道に乗ると、その大部分を政商に払い下げたのでした。ゼロから出発して資本主義へ進む「打出の小槌」が地租改正だったのでした。

二十世紀は地主制度の確立のなかで始まった

 農業で食い詰めた農民は労働者になったり、娘を製糸工場の女工にしました。コレラにかかれば会社の広場で注射で殺したり(細井和喜蔵『女工哀史』)、粗食で湿気の多い紡績工場での長時間労働で、結核にかかり、やせさらばえて故郷に帰って死んだ女工が農村になんと多かったことか。こうして資本は肥太りました。

 もちろん、封建時代から地主はいましたが、明治・大正・昭和にかけて日本の農村を支配した地主制度は、こうして地租改正からわずか四半世紀に確立しました。

明るさと活気農地改革直後の農村

 こうして農村は二十世紀を迎えたのでした。弾圧に抗して「高い小作料を引き下げよ」「土地を農民へ」という戦前の農民運動を経て、一九四五年、太平洋戦争は終わり、農地改革が行われました。

 一九五〇年には農地改革は基本的には終わり、農民は初めて、作ったものが全部自分のものになったのでした。

 だから、農地改革後の農村には、ある種の明るさと活気がありました。とくに、生産については非常に熱心で、農村青年の間には農事研究会や4Hクラブなどができました。農村青年の集まりで最も盛り上がるのは農業生産の話でした。

 おとな達も、馬鈴薯のベト病の共同防除をして、後に一パイやる実行組合があれば、秋には新米で大食会をやる集落もあり、寄るとさわると稲作や野菜の栽培・出荷、養蚕や酪農や果樹栽培の話などが活き活きと話し合われました。

 もちろん、その頃といえども農民には農政に対する要求は様々あり、決して楽な生活ではありませんでしたが、ものを作るという点では明らかに活気が溢れていました。

自民党が補助金農政で農村に政治的基盤

 作ったものが、高く売れようが、安かろうが、ともかく自分のものだということは、何百年来なかったことです。政権党(自民党の前身)などの保守的政治家は、この瞬間を見逃さず、生産に関わる要求をいち早く取り上げ、政府も上から推進しました。

 たとえば、一九五一年には、積雪寒冷単作地域振興の土地改良事業を国庫補助として実施したことに最も端的に現れています。土地改良区の理事長の多くが自民党の政治家だったり、代議士の名入りの記念碑が水田地帯の道路脇に建てられたのはそのためでした。

 以後、農業関連の補助事業によって、自民党は農村で長期の政治的基盤を築いてきたのでした。

輸入しながら減反、全国から沸き上がる怒り

 七〇年代末から、「日本農業は過保護だ。割高だ。農畜産物輸入自由化を」というキャンペーンが張られました。このとき、農民連はまだ「懇談会」の時期でしたが、これが農産物輸入総自由化のためのイデオロギー攻撃であると位置づけ、(1)財界こそ過保護の最たるもの、アメリカやEC(当時)の農業保護は日本よりはるかに手厚いではないか、(2)割高だというなら世界一高い農業資材・機械の独占価格こそ引き下げよという反撃を展開しました。八八年の参議院佐賀補欠選挙で竹下総理みずから「牛肉・オレンジの輸入自由化はやらないから自民党を支持してほしい」という電報を打電しながら、選挙直後にアメリカに屈服して自由化を受け入れるとか、九四年に、三度にわたる「コメ輸入自由化反対」の国会決議を蹂躪して受け入れるなど、公然と公約を破り捨てました。

 ミニマム・アクセス米を輸入しても、減反に影響を与えない、減反の強化拡大は豊作のせいだなどと言い訳をして農民を欺いてきました。

 しかし、徐々に「輸入しながら減反とは何事か」という怒りの声は全国に沸き上がるようになりました。

 コメだけではありません。自民党政治は食管制度、価格保障の廃止など、すべての分野で農民の期待に反することばかりやってきました。長いこと自民党を支持してきた農村の保守的な人々や農協・農業委員会の主だった人々が各地で公然と自民党農政を批判するようになったのは、余りにも農民を馬鹿にした農政の結果でした。この間の大きな変化です。

自民党の没落は宿命、ここに情勢の特徴がある

 つまり、自民党はこの政治的基盤をこともあろうに自分の手で壊しているわけです。

 農業切り捨てが自分に不利だと分かっていても、政治資金を財界に依拠しているので財界の農業つぶしには逆らえないここに自民党の没落の避けがたい宿命があります。ここに、二十世紀末から二十一世紀初頭の歴史的な情勢の特徴があります。

 自民党政治の崩壊それは農業と農山村の「復権」の巨大な第一歩になるでしょう。

(つづく)

(新聞「農民」2001.1.8付)
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2001年1月

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